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新潟中越地震/新潟県小国町リポート

傾いた法末神社

2004年10月23日17時56分、新潟県で強い地震とニュース速報。新潟県小国町出身である私は釘付けとなった。電話は一向につながらず、携帯電話はどこへかけてもパンク状態だった。実家の父は町の教育長である。先般の豪雨の時もそうだったように、災害時には町役場へ詰めきりとなる。母は余震の続く中、一人残されていると思われた。

10月24日、やはり連絡が取れないままいた。被害があったはずの小国町のことが全く言われない。NHKの安否確認でも小国町と川口町の確認情報が多いことに気づく。嫌な予感がした。やはり現地に入って確認するしかないと、荷造りを済ませたところに電話がかかってきた。実家の母だった。柏崎市まで出て携帯電話からかけてきたのだ。怪我もなく無事だった。ライフラインはすべてストップ、家自体は立っているが、中は滅茶苦茶、余震も大きく、怖くて家の中には入れない。電話回線も携帯電話の基地局も壊れているようだった。

液状化で飛び出したマンホール

10月25日、あるブログで気になる情報があった。小国町法末地区の孤立だ。土砂崩れで道が寸断され、かろうじて歩いて通れる道があるが非常に危険。透析患者が2名。自衛隊からの救援はパンが1つ。山水をくみ上げている簡易水道は、ポンプの電源がなく断水との情報。子供の頃、祖父の経営していた商店で、この地区へ食料や家庭用品の配達していた。母とライトバンに乗って手伝ったものだ。同級生もこの地区にいた。そう思うといたたまれず、新潟行きを決心した。

10月26日、東京にいる弟と同郷の友人、そして救援物資を満載した車で10時間かけて被災地に入った。夜、到着した被災地は、電灯が点いていないので真っ暗闇。国道の信号機は発電機で動いていた。実家の外は暗くてわからないが、中に入ると物が散乱し、食器が割れ、家具が倒れ、壁が落ちたり割れたりと悲惨だった。システムキッチンは跳ね上がったらしく、キッチンマットが挟まって抜けなくなっていた。また、筋交いが外れて、突き破った壁などをみると相当な地震力を受けたようだ。

倒れた墓石

10月27日、夜が明けて外の様子を見ると、石垣が崩れ、土手が落ち、建て増したサンルームの基礎が先端で5cmほど落ちているのがわかる。幸いにも母屋の基礎は、仕上げモルタルの剥離しかなく、不同沈下は見られなかった。本震を体験した人たちは皆、余震震度が低くても瞬間的に凍りつき、家から飛び出したり、悲鳴をあげるなど、死者や負傷者の数は少ないが、度重なる強い余震で心的外傷を受けていることがわかる。近隣の住宅の中には、安易に田んぼを埋め立てたもので道路側の基礎と比べ15cmも下がっていたもの、また、筋交いの向きが間違っていたり、開口部の連続であきらかに少なすぎるものは、壁が破壊したり、倒壊寸前となったりしたものもあった。

全壊の作業場

被災地の中で、人々の不安や不満もわかり、次に起こるであろう東海地震や東南海地震の対策をしなければならないと思い知らされた。震源の集中した小千谷市は人口4万人程度で、あのように避難生活が混乱した。一人当たりの物資の備蓄が少ない都市部では、行政任せでいたのでは、今回と同じくジリ貧の状況となるだろう。浜松市は60万人、名古屋市は220万人、東京都は区部だけでも839万人...。プレート型地震であれば、水道や電気の復旧、救援物資が増えてくるのが1週間程度。最小限それだけの食糧と水の備蓄をしたい。ただ、それも家が全壊や半壊しなければよいが、仮設住宅の建設までの避難所生活とその将来を想うと、建築に携わるものの責任を感じずにはいられない。我々は建てることも学ばなければならないが、壊れることこそ知るべきでないか。被災地の状況を目の当たりにした、率直な気持ちである。


次のレポートでは、震源地の建物の状況について述べる。

高橋貴大 人・建築 設計所 高橋貴大

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